創造(そうぞう)主(ぬし)はどなたで、どのようにしてその方(かた)への信仰(しんこう)を証明(しょうめい)できるのか

創造(そうぞう)主(ぬし)はどなたで、どのようにしてその方(かた)への信仰(しんこう)を証明(しょうめい)できるのか

La Biblia enseña sobre una sola verdadera Iglesia y cuyo nombre es “Iglesia De Cristo,” que es profetizada, y cree que solamente el Padre es el Dios verdadero

Por ROMMEL V. SAN PEDRO

(日本語に翻訳:unknown)

聖(せい)書(しょ)はどなたが創(そう)造(ぞう)主(ぬし)であられるかを教(おし)えています。預言者(よげんしゃ)たちによりますと、その方(かた)とは父(ちち)のことです。

「私(わたし)たちすべてには、唯(ゆい)一(いつ)の父(ちち)がいるではないか。/唯(ゆい)一(いつ)の神(かみ)が、私(わたし)たちを創(そう)造(ぞう)されたではないか。」(マラ2:10 新改訳)。

「あなたを待(ま)つ者(もの)に計(はか)らってくださる方(かた)は神(かみ)よ、あなたのほかにはありません。むかしから、ほかに聞(き)いた者(もの)も耳(みみ)にした者(もの)も目(め)に見(み)た者(もの)もありません。しかし、主(しゅ)よ、あなたは我(われ)らの父(ちち)。私(わたし)たちは粘(ねん)土(ど)、あなたは陶(とう)工(こう)/わたしたちは皆(みな)、あなたの御(み)手(て)の業(わざ)。」(イザ64:3, 7 新共同訳)

主(しゅ)イエス・キリストはこのことを、このように証(しょう)明(めい)されました:

「永(えい)遠(えん)の命(いのち)とは、唯(ゆい)一(いつ)の、まことの神(かみ)でいますあなた … を知(し)ることであります …

「これらのことを語(かた)り終(お)えると、イエスは天(てん)を見(み)あげて言(い)われた、『父(ちち)よ、時(とき)が来(き)ました。』」(ヨハ17:3, 1 口語訳)

使(し)徒(と)たちもこのように証(しょう)明(めい)しています:

「私(わたし)たちには、父(ちち)なる唯(ゆい)一(いつ)の神(かみ)がおられるだけで、この神(かみ)からすべてのものは発(はっ)し、この神(かみ)に私(わたし)たちは至(いた)るからです。…」(Iコリ8:6 新改訳)

したがって、聖(せい)書(しょ)が教(おし)えている創(そう)造(ぞう)主(ぬし)とは、唯(ゆい)一(いつ)まことの神(かみ)であられる父(ちち)のことなのです。

まことの神(かみ)の性(せい)質(しつ)については、霊(れい)であることから、肉(にく)や骨(ほね)はありません(ヨハ4:24; ルカ24:38–39)。このため、神(かみ)は目(め)では見(み)えません(Iテモ1:17)。しかし、なぜ私(わたし)たちは目(め)では見(み)ることはできない、神(かみ)の存(そん)在(ざい)を信(しん)じるべきなのでしょうか。

「世(せ)界(かい)が造(つく)られたときから、目(め)に見(み)えない神(かみ)の性(せい)質(しつ)、つまり神の永(えい)遠(えん)の力(ちから)と神(しん)性(せい)は被(ひ)造(ぞう)物(ぶつ)に現(あらわ)れており、これを通(とお)して神(かみ)を知(し)ることができます。従(したが)って、彼(かれ)らに弁(べん)解(かい)の余(よ)地(ち)はありません。」(ロマ1:20 新共同訳)

つまり、父なる神(かみ)が私(わたし)たちを創(そう)造(ぞう)された方(かた)であることを完(かん)全(ぜん)に信(しん)じ、決(けっ)して疑(うたが)うべきではありません。神(かみ)はご自(じ)分(ぶん)を完(かん)全(ぜん)に信(しん)じる人(ひと)たちを報(むく)いてくださいます。

「信(しん)仰(こう)がなければ、神(かみ)に喜(よろこ)ばれることはできません。神(かみ)に近(ちか)づ(づ)く(く)者(もの)は、神(かみ)がおられることと、神(かみ)がご自(じ)分(ぶん)を求(もと)める者(もの)に報(むく)いてくださる方(かた)であることを、信(しん)じなければならないのです。」(へブ11:6 新改訳)

信(しん)仰(こう)は、救(すく)いのためのとても重(じゅう)要(よう)なものであることがわかります。私(わたし)たちを救(すく)う信(しん)仰(こう)とは、行(おこな)いと共(とも)に働(はたら)く信(しん)仰(こう)のことであり(ヤコ2:22)、行(おこな)いが伴(とも)なわなければ信(しん)仰(こう)は死(し)んだものです(ヤコ2:17)。その行(おこな)いとは、すべての人(ひと)がキリストのもとに集(あつ)まり、一(ひと)つになるという神(かみ)の御(み)旨(むね)を行(おこな)うことです(マタ7:21; エペ1:9–10)。どのようにして人(ひと)はキリストのもとに集(あつ)まり、一(ひと)つになることができるのでしょうか。それは、キリストのからだである教(きょう)会(かい)(キリストはそのかしら)、つまり、キリストの教(きょう)会(かい)の一(いち)員(いん)になることによってです(ロマ12:4–5; コロ1:18; 使徒20:28 Lamsa訳)。

確(たし)かに、神(かみ)への信(しん)仰(こう)はとても重(じゅう)要(よう)です。しかし神(かみ)に信(しん)仰(こう)をもっていることは、神(かみ)の御(み)旨(むね)に従(したが)う(う)ことで証明(しょうめい)することができるのです。