悲惨な状況への対処

悲惨な状況への対処

La Biblia enseña sobre una sola verdadera Iglesia y cuyo nombre es “Iglesia De Cristo,” que es profetizada, y cree que solamente el Padre es el Dios verdadero

ロイド・I・カストロより

(Traducido al español por KEVIN MARTIN)

イグレシア・ニ・キリスト(キリストの教会)のメンバーにとって最も重要なことは次の通りです。この真の教会での権利は彼らの誇りと名誉です。悲惨な状況への対処において、この教会にとどまるためなら誰にも負けません。もし必要ならば、全身全霊かけて守り抜きます。それは近づいている主イエスキリストの再来の日に救いの希望と永遠の命をいただくためにとても大きく関わっているからです。

一生懸命務めている教会管理の大きな目標は、キリストの教会のメンバーが神聖な旅を無事終えることです。彼らがどんな脅威にあっても神のしもべ、そして子供として与えられた権利にとどまることです。彼らはこの苦境に立たされた世界を通り抜け、真の住みかである聖なる都へたどり着くために、どんな苦痛や敵にも圧迫されることはありません。

彼らを動かし続けているのは困難な状況から彼らをお救いになるという神の約束です。

お祈り-義務と権利

苦しみの時、神の忠実な僕は、神に祈ります:

「あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。」(詩32:6−7新共同訳)

神は御自分の民の隠れがであり、守り、救ってくださる方です。彼らは悪い状況からでも滅亡することはありません。彼らが神にお祈りすることは当たり前なことなのです。実際には、神へのささげもののひとつである、お祈りをいつもすることは彼らの義務なのです(ルカ18:1新改訳;ヘブ13:15)。ですから、お祈りは単に何かがおとずれたからおこなうのではなく、何かがおとずれる前からにおこなうものです。真のキリストの教会のメンバーは、苦しみや厳しい状況が訪れた時に備えるため、平和で豊かな時でも、神の守りと祝福を常にいただけるようお祈りをしているのです。

お祈りで願ったことは叶うという信念が堅いものであるべきです。お祈りを彼らの日常生活の一部にすることは最も役立つことです。

しかし、お祈りは神がお聞きになるために必要なすべてではありません。その特権は神が選ばれた者によって行われる必要があります:

「主は忠実な人を選び/呼びかけを聞いてくださることを知れ。」(詩4:4聖書協会共同訳)

クリスチャンの時代、神に選ばれたのはキリストの血により贖われ、罪の赦しに恵まれた人々です(エフ1:3-7新共同訳)。それは全世界ではなく、キリストによって贖われたキリストの教会だと聖書は示しています:

「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊はキリストがご自分の血で買い取られたキリストの教会を牧させるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」(使20:28 Lamsa 日本語訳)

わたしたちの時代、キリストの教会のメンバーが神に選ばれた人々です。ですから、救いを確かにするためだけでなく、神にお祈りし、聞いていただく権利を得るには教会に入り、とどまる必要があります(エフ5:23)。

キリストの教会のメンバーが自分の権利を忠実に重んじていることは不思議なことではありません。彼らは神が助けてくださることを知っており、何があっても権利を守ります。

ですから、厳しい状況の時、神のしもべは神にお祈りする権利を使っているのです。ヨブ5:8(新改訳)に述べられているように、「私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。」。彼らは心配事を神にゆだね、神に強めていただけるのです:

「わが魂は悲しみによって溶け去ります。み言葉に従って、わたしを強くしてください。」(詩119:28)

このように強められため、彼らは悲しみを乗り越えることができ、呼ばれた権利と救いの希望にとどまることができるのです。実にお祈りはこの世の惨事に対する強力な武器なのです。

祈りの力

イスラエルの王、アサについて聖書が述べていることは、神のしもべたちの生活における祈りの力を証明しています。しかし、次の節で、その「力」は神が喜ばれたことに由来すると気づくべきです:

アサは、彼の神、【主】がよいと見られること、御目にかなうことを行い、…それから、ユダに命じて、彼らの父祖の神、【主】を求めさせ、その律法と命令を行わせた。さらに、彼はユダのすべての町々から高き所と香の台を取り除いた。こうして、王国は彼の前に平安を保った。(II歴14:2, 4–5新改訳)

神の最初の民であるイスラエルの歴史のこの部分では、この地には2つの王国がありました-北はイスラエル、南はユダです。ユダの3代目の王であるアサは、神の教えに従い、神の民を導きました。彼は異教の崇拝と偶像礼拝を取り除きました。神への正しい礼拝を行いました。

今の神の民として、キリストの教会の忠実なメンバーはどんな天候でも-自然の中でも人生の中でも、礼拝を決して怠ることはしません。礼拝は彼らが神に祈るのに最善の時なのです。この神の御心を行えば、アサと神の民のように、神の助けをいただけます:

「彼はユダに語った、…「この地はなおも私たちの支配下にあるのは主なる神の御心を成し遂げたからだ。神は私たちを守り、あらゆる面で私たちに安心を与えてくださった。」そして彼らは建設し、繁栄した。」(II歴14:7 GNB日本語訳)

強力な敵がユダに立ち向かった時が訪れました:

「エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて、マレシャまで攻めてきた。」(II歴14:9)

五百八十万の兵士(II歴14:8)を抱えたユダの軍隊は大規模でしたが、彼らの敵の軍隊は二番の強さで対抗してきました。ユダの平和と安全が脅かされた時、彼らは変わりましたか?いいえ、変わることはありませんでした。当時の神の民が直面した深刻な問題の最中でも、アサは恐れることなく、希望を捨てませんでした。なぜ全能者が彼と共におられたのですから、そんなことをすべきでしょうか?彼が最初にしたことは、力のない者を力のある者から救うことができる神に向かって呼びかけたのです。アサにとって、神よりも強い方はいない:

「時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った、「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください」。(II歴14:11)

時々、キリストの教会のメンバーも同じような事態に直面することがあります。神に仕える上で平和的に進んでいる時もあれば、突然すべての問題が訪れ、対処できないほどの深刻な問題が訪れる時もあります。彼らは、神の忠実なしもべがやるべきことをしています。神に祈ることです。

キリストの教会のメンバーは、神の御名とキリストの名において使命を果たすためにこの終わりの時代の神の御使いである兄弟Felix Y. Manaloを見習い、神を頼りにしています。神は彼と共にいてくださり、強めてくださり、ささえてくださる約束を果たされました(イザ41:9-10)。そのため、彼の働きの実であるキリストの教会は、大いに広まり、途方もなく成長しました。

ですから、もし問題がある時、大きな問題でも小さな問題でも、最初に神を思い浮かべていますか?神に信頼を置いていますか?アサ王のように問題を神にゆだねていますか?

アサとユダが立ち向かった大軍に何が起こったのかを、そこで神の従順なしもべの祈りの力を示しています:

「そこで主はアサの前とユダの前でエチオピヤびとを撃ち敗られたので、エチオピヤびとは逃げ去った。アサと彼に従う民は彼らをゲラルまで追撃したので、エチオピヤびとは倒れて、生き残った者はひとりもなかった。主と主の軍勢の前に撃ち破られたからである。ユダの人々の得たぶんどり物は非常に多かった。」(II歴14:12–13)

このことから学びましょう:問題が大きければ大きほど、お祈りをより熱心におこなうべきです。問題がどれほど深刻でも、私たちは勇気をもち、助けてくださる神の約束を握り締めましょう。恐れや心配事は私たちの希望を減らせるだけです。疑うことは、神の助けをいただくのに最大の壁のひとつです(ヤコ1:6-8)。そして、神の助けは、あらゆる面で苦難が迫り、わたしたちが弱さを経験するときに最も必要な時です:

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 (II コリ12:9–10新改訳)

神の助けは御自分の子供たちの要求に十分です。弱くても、彼らは神がキリストを通して与えられた力によって強めてくださいます。キリストの教会のメンバーは、神が彼らを強めてくださると約束されたので、彼らには固い希望があり、人生でどのような経験をしても乗り越えることができます(イザ41:9–13)。

従順にもなること

信仰を持っているだけで十分ではありません;神に喜びをもたらすために、神のすべての戒めに従うべきです。それによって神が私たちを強くしてくださることを確信できます:

あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい。こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。(申11:8新共同)

神の戒めに従わなったり、逆らう者は何も得られません。神が力と成功を与えられるのは、従順な者です。

神の忠実なしもべが常に従う神の戒めのひとつは、神を礼拝することです。キリストの教会のメンバーは礼拝に熱心です。問題が訪れたときでも、礼拝を止めることは決して考えることはありません。それどころか、彼らは礼拝をより熱心に行い、神をたたえるだけでなく、このような理由もあります:

「主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。」(詩20:2新改訳)

礼拝の時に、彼らは神に近づいて求めていることを打ち明け、神の御言葉を通して導いてもらい、聖霊を通して強めていただけるのです(エフ3:16–18)。

真のキリストの教会のメンバーは、特に悲惨な状況において、神の助けと力に頼ることができます。彼らの希望は神が彼らの祈りを聞いてくださると信じています。信仰と従順であることによって、彼らは神の助けと支えを受け、あらゆる障害を乗り越え、神が彼らに与えられた道を完全に走り抜き、それによって聖なる都にたどり着けるようになります。