世の光として輝く

キリストの教会の全員は主なる神が望んでおられることを果たすことによって、世の光として輝くことができる

イグレシア・ニ・キリスト(キリストの教会)に入ることはとても重要なことである。主イエス・キリストは言われた。「…誰でもわたしを通って群れの中に入る者は救われます」(ヨハネ10:9 Revised English Bible)。群れとはキリストの教会である(使徒言行録20:28 Lamsa)。したがって、救い主ご自身が、神の裁きから救われるために彼の教会に入るようにと人々に命じられたのだ(ローマ8:1; コリント第一5:12–13)。

キリストの教会の重要性ゆえに、教会の信者たちは愛と気遣いとをもってその信仰をまだ信者ではない人たちにもわかち、教会に入ることをすすめている。信者たちはそれぞれの家族や友人らを聖書の勉強会などに招待したり、Pasugo: 神の知らせと呼ばれるマガジンやパンフレット、教会のテレビやラジオを通してのプログラム、教会の公式アカウントやウェブサイト – iglesianicristo.net、incmedia.org、そしてpasugo.com.ph – の閲覧などをすすめることによって、その務めを果たしているのだ。そのため、パンデミックゆえに自宅待機を要請されている中でもこの務めを果たすために信者らは尽力しているのである。これによって真のクリスチャンとしての目的 – 世の光として輝くという務めを果たせるのである(マタイ5:14)。このことは人々が真理を理解し救われるための神のみこころなのである(テモテ第一2:3–4)。

伝道活動に協力するため、キリストの教会の一員はその生き方を通して世の光として輝くのである。主なる神はご自分の教えにしもべたちが間違いを犯すことも恥じることもなく完全に従うことを求めておられる。使徒パウロはこう教えた。「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。」(ピリピ2:15–16)

従ってキリストの教会のメンバーらは例えこの世の人には普通のことであっても、それが神の教えに反している場合はそのような行いにふけったりはしないのである。彼らは周囲の価値観ややり方に合わせなければならないプレッシャーをかけられていても、たとえば深酒や楽物乱用、婚前前性交、同棲、同性愛、不誠実な生き方、そして多くの人の家庭を壊し、危険をもたらすギャンブルなど、そのような行いによって揺らいだりはしないのである(コリント第一6:910)。

罪によって暗闇と化してしまったこの世の文化などに左右されるのではなく、キリストの教会の一員は次の主イエスの教えに従うのである「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16口語訳)。よいおこないとは、聖書に書かれている神の戒めまたは命令のことである(ローマ7:12)。

神は、真のクリスチャンがご自分の命令にどのように従うことを求めておられるのか?使徒パウロは次のように教えている:

「あぐまずに善を行い続けましょう。そうすれば来る時に永遠の命と言う実を刈り取ることができます。あきらめてはなりません。」(ガラテヤ6:9 Easy-to-Read Version)

キリストの教会のメンバーが礼拝集会への参加のように、どのような状況になろうともいつも神への奉仕を心から行うことは驚くべきことではない(ヘブライ10:25)。ささげものをすることや(ヘブライ13:15–16)、助けを必要としている人に手をさしのべること(申命記15:11)、信者以外に信仰を広めること(ヨハネ4:28–30)、正しい生き方を送ること(エフェソ4:21–24)を徹底すべきだ。すべてのことにおいて神に感謝しなければならない(テサロニケ第一5:18)。これが理由で、2024年7月27日の教会の110周年記念で世界中の兄弟姉妹らは心からのささげものを行った。彼らはパンデミックや疫病があろうとも神の教えに従うことに疲れたりはしない。なぜならそのことを通して、真に世の光として務めを果たすことができるからだ。

聖書によれば、神の御前に良いことを行うことは、大きな祝福をもたらす。たとえ犠牲を払うことになろうとも、キリストの教会の全員は決してあきらめることはない。主なる神のためにその任務を果たし続け、時が満ちたころに神からの約束である永遠の命という報いにあずかることができるからだ。