神(かみ)は人(にん)間(げん)を創(そう)造(ぞう)される前(まえ)は独(ひと)りではありませんでした。しかし、たとえその時(とき)に他(ほか)の存(そん)在(ざい)と共(とも)におられたとしても(創(そう)世(せい)記(き)1:26)、聖(せい)書(しょ)は神(かみ)が他(ほか)の神(かみ)に語(かた)りかけていたとは教(おし)えていません。
その時(とき)に存(そん)在(ざい)していたのは、神(かみ)が創(そう)造(ぞう)された天(てん)使(し)たちです。
「神(かみ)である【主(しゅ)】は仰(おお)せられた。「見(み)よ。人(ひと)はわれわれのひとりのようになり、善(ぜん)悪(あく)を知(し)るようになった。今(いま)、彼(かれ)が、手(て)を伸(の)ばし、いのちの木(き)からも取(と)って食(た)べ、永(えい)遠(えん)に生(い)きないように。」そこで神(かみ)である【主(しゅ)】は、人(ひと)をエデンの園(その)から追(お)い出(だ)されたので、人(ひと)は自(じ)分(ぶん)がそこから取(と)り出(だ)された土(つち)を耕(たがや)すようになった。こうして、神(かみ)は人(ひと)を追(つい)放(ほう)して、いのちの木(き)への道(みち)を守(まも)るために、エデンの園(その)の東(ひがし)に、ケルビムと輪(わ)を描(えが)いて回(まわ)る炎(ほのお)の剣(つるぎ)を置(お)かれた。」(創(そう)世(せい)記(き)3:22–24新改訳(しんかいやく))
聖(せい)書(しょ)は唯(ゆい)一(いつ)の神(かみ)、全(ぜん)能(のう)なる父(ちち)がおられることを教(おし)えています。神(かみ)はこう宣(せん)言(げん)されました:
「しかし見(み)よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神(かみ)はない。」(申(しん)命(めい)記(き)32:39新(しん)共(きょう)同(どう)訳(やく))
聖(せい)書(しょ)はさらに次(つぎ)のように述(の)べています:
「唯(ゆい)一(いつ)の父(ちち)を持(も)っているではないか。我(われ)々(われ)を創(そう)造(ぞう)されたのは唯(ゆい)一(いつ)の神(かみ)ではないか。」(マラキ2:10新共同(しんきょうどう)訳(やく))
全(ぜん)能(のう)なる神(かみ)は人(にん)間(げん)の唯(ゆい)一(いつ)の創(そう)造(ぞう)主(ぬし)です。聖(せい)書(しょ)にはこう書(か)かれています:
「神(かみ)は御(ご)自(じ)分(ぶん)にかたどって人(ひと)を創(そう)造(ぞう)された。神(かみ)にかたどって創(そう)造(ぞう)された。男(おとこ)と女(おんな)に創(そう)造(ぞう)された。」(創(そう)世(せい)記(き)1:27新(しん)共(きょう)同(どう)訳(やく))
「大(だい)地(ち)を造(つく)り、その上(うえ)に人(にん)間(げん)を創(そう)造(ぞう)したのはわたし。自(じ)分(ぶん)の手(て)で天(てん)を広(ひろ)げ/その万(ばん)象(しょう)を指(し)揮(き)するもの。」(イザヤ45:12新共同(しんきょうどう)訳(やく))